『14:00から本社で打ち合わせだから』
珍しい事もあったもんだとティキは欠伸を噛み殺しながら携帯を確認した。指定された時刻にはまだ40分程もある。
勿論昼夜逆転生活も云年目、超夜型人間のティキがこの真っ昼間に遅刻もせず出社できたのは幾つかの偶然と不注意の結果だ。社会人としては基本のき、である15分前行動等知らぬ、早く着くくらいならその分寝ていたいという不適合者なティキからしてみれば今の状況はいささか頂けない。
今朝も5時の閉店まで店に出て、片付けやら何やらを終えたら帰宅したら7時を過ぎていたという状況で、そこからシャワーを浴びてパンをかじり洗濯機を回して嫁さんほしいと呟いてからベッドに飛び込んだのは10時過ぎ。本当なら1時にかけた筈のアラームが何を間違えたのか12時丁度に鳴り響き、設定時刻が間違っていたことには気づかず妙に重怠い体を引き摺って家から出た。時間が想定よりも一時間もはやいことに気づいたのは駅のホームで次の電車待ちをしている最中で、気付いたからといって徒歩15分のマンションに戻る気も起こらず仕方無しに電車に乗り込み今に至る。
「だるー…………」
昨日ティキを指名したのは40を幾つか過ぎた位の恰幅のいい女社長だった。気前がよく、そして恐ろしいほど酒に強かった彼女に付き合ってグラスを飲み干していたらこのザマだ。ティキの名誉のために言うならば、彼は店の中でも1、2を争うくらいには酒に強い。だが正しく昨日は相手が悪かった。酒に強いが1人で飲むのは嫌だというその女社長に付き合わされた何人かのヘルプ要員の新人が酔い潰れて床に転がる羽目になった。ティキはNo.1のプライドで何とか平静を保ったがその実非常に危なかったのは事実だ。そんなティキが笑顔で客を見送ったあとトイレに駆け込んだのを、誰が咎められようか。寧ろ見事なプロ根性、と拍手喝采を浴びるべきなのだ。
「くっそ頭痛ぇ」
数年ぶりの二日酔いにぶつくさ文句を呟きながらティキは会社が入っている雑居ビルすぐ横の自販機の前に立った。
ほんの数メートル先ではラメ入りキャミソールに豹柄ミニスカート、10センチ近いヒールという出で立ちの女が煙草か酒かで焼けた声を客引きのため張り上げている。今日も元気なことで、と呟いたティキの声は彼女の甲高い声にかき消される。
因みに今は真っ昼間でありその女の店も服屋だ。この界隈でその店はキャバ嬢とその候補の御用達として知られておりティキの会社もギャル物の撮影の際には世話になっている。今日も未来のキャバ嬢候補であろう近場の底辺私立高校の女子生徒達が店内を物色していた。
体内への吸収が早いことを売りにしている青いラベルの清涼飲料水を選んでボタンを押す。ガタン、と転がりでてきたペットボトルの蓋を開けティキは一気に煽った。一息で半分近くが飲み干される。
どうせまだ「仕事」中であろう会社の中に入る気は起こらずティキはビルの5階の窓を仰いだ。勿論何時如何なる時でも開くことのないブラインドが下がっている為中の様子は分からない。というか、分かったら困る。流石にこの風紀の余り良くない街であっても、幾らなんでも社内がダダ漏れだったらティキの会社は今頃此処には居られない。
会社の入口と向かい合う形で何時からあるのかも分からない薄汚れたベンチに腰掛けたティキはぼんやりと道を眺める。胃の中に送り込んだ水分はゆっくりと体に吸収され、思考は家を出る前に比べたら大分クリアだ。ただ、容赦無く照り付けてくる日差しと気温で別の眩暈がしそうではある。
取り込み中を覚悟で会社に入ろうかどうか悩んでいる間、ふ、とティキの視界の前に影が差した。否、それは影ではなかった。
顔を上げれば丁度通りがかったのは一人の人間。何だ通行人か、と視線を下げかけたティキは自分の目では無いもっと奥深く、それこそ能の中の何かを司る部分に命令されて再度視線を上げた。
それはとても美しい人間だった。
背の中程まである艶やかな絹糸は緩慢に歩く美しい人間の動きに合わせてゆっくりと揺れる。物憂げに伏せられた目元には睫毛が影を作っていた。
それがとても美しいと判断すると同時に理性よりももっと奥深い本能が「これは違う」と訴えかける。そう、その美しい人間は女では無かった。他の人間ならば一見しただけでは分からないかも知れない。だが、職業上そういったあれこれに造詣の深いティキには造作も無い。見たところは随分若かった。ティキよりも幾つか歳下だろう。学生かも知れない。
ティキはその美しい人間がゆっくりと自身の前を横切り、そして雑居ビルの入り口に吸い込まれるように入っていくのを見送った。
暫く、動けなかった。
ティキ神なのに神田が出て来なかった。