「わぁ、久しぶり」
空は常に薄暗く雷光が走っている。何時も何時もこんな天気じゃ他族なら気も滅入るだろうと考えた。鬼族にはそんな繊細さは無いだろうけれど。
眼下に広がる鬼の里を眺めながら、何時見ても妖達が好き勝手に造りあげた里だと思わず笑う。
狐の里はこうじゃない。綿密に計算を繰り返し、僕の館――――――天狐の居館を中心に、他の狐の巣は有事の際には砦になるように作られている。あんなに弱い狐達が一体僕を何から守ってくれるというのか。まぁ、捨て石になりたいなら勝手になればいい。
少し感度を研ぎ澄ませると、広大な里の奥深く、鬼神の宮殿を中心に網目模様のような結界が視えた。
術者は一人じゃないらしく、その色も、感じる気配も様々だ。内二つは知っている気配。一つは他でもない師匠の、もう一つ、均等に網目を並べる様が彼の人柄を感じさせる物は僕の教育係も務めた上位の鬼のもの。その他にもあるにはあるけれど、物の数に入らない程度だ。
「そういえば最近リンクのお菓子、食べてないなぁ」
侵入のついでに台盤所にも侵り込んでみようか。もしかしたら何かあるかもしれない。
そう決めて、里に向かって僕は駆け出した。
サラサラと紙の上で筆を走らせていたリンクの動きは、ぴたり、と止まった。
今、確かに感じた。蜘蛛の巣のように張り巡らせている結界に、何かが針先で触れたような――――――
「…………同胞ではありませんね」
ほんの僅かに触れた「それ」はまるで取り繕うかのように歪を直している。こんな器用なことが出来るような同胞は居ない。同胞が引っかかったのであれば、力尽くで引き裂き押し通ろうとするだろう。
こういった事を得意とする少年、否、青年の姿を脳裏に思い浮かべて厄介な事になったと長嘆。
「――――――賊が入り込みました、捕らえなさい!」
周囲に控えていた鬼にそう命じ、自分自身、侵入りこんだであろう狐の王を捉えるべく立ち上がった。
最初に向かったのは台盤所だ。
かの狐の王が彼の、リンクの作った菓子を目当てにこの鬼神の宮に侵入するのは何もこれが初めての事ではない。幼少時の一時此処で養っていた事もあり、まるで自分の家のように侵入りこむのだから厄介だ。
先の天狐を打倒して其の座を継いだ時より幾度と無く、既にその身は鬼神の養い子ではなく稲荷神に仕える天狐、立場を弁えよと諭したものの、全く聞き入れられた様子はない。躾と教育の失敗をつきつけられて何時も苦い顔をしたものだ。
辿り着いていみれば案の定、今日奥の宮に献上するはずの焼き菓子の類一切と昼餉の為に準備されていた筈の肴が消えている。
渋面を作ったリンクは、足早に奥の宮を目指した。そこはリンクのみならず鬼神の結界もが巡らされている。そう安々と突破されることは無いだろう。しかし、だ。
狐の王を奥の宮に近づけさせるわけには行かなった。奥の宮の女主人には、他族の者は何人足りとも近づけるなと彼らの神から堅く命じられている。
本宮と奥の宮とを繋ぐ渡り廊下。警備に当たっている鬼族の中でも選りすぐり――――――力の話だ――――――の女達が、獲物を手にして其処を守っている。
彼女らはリンクを一瞥するとするりと交差させていた獲物を退かせた。
「狐の王が侵入りこみました。奥の宮様には近づけないように」
「承知」
短く答えた女の内二人がリンクの後ろに付いた。鬼族上層部、長の信任厚い補佐官といえども鬼神の妃の住処、奥の宮に単身で入り込めるわけではない。
足早に深部へ向かうリンクと女達との背を、じっと見つめる視線には彼らは気付くことは無かった。
鬼族の里は常に薄暗く雷光走り肌寒い天候だ。妖達が住まう異界としては至って普通の環境でもある。
だが一歩奥の宮に足を踏み入れたならば、全く違う光景が広がっている。
空は鮮やかな青、真白い雲が浮かんでいる。陽光が燦々と降り注ぐ為に暖かく、さては此処は天界という所かと思えるほどだ。
それは強ち間違いではない。この奥の宮は、天界で生まれ育った女主人が穏やかに過ごせる様にと鬼神が手ずから作り上げた空間だ。リンク達が同じことをしようとすれば単なる幻視、催眠の類に留まるのであろうが世界を創った神の一柱のする事だ。現実にそこにその空間は「存在する」。
奥の宮の一番深い中心部、一際壮麗な建物には、更に別の女達が控えていた。彼女達はリンクと同格、あるいは更に格上の鬼達だ。取り次ぎ役の侍女が、つい、とリンクに視線を向けた。ひりりと肌を刺すその強さに微かに息を呑んでから、
「補佐官のリンクです。奥の宮様に拝謁賜りたく参上いたしました」
「何用で」
「…………侵入者が出ました。その奏上です」
「主上と我らとが護る此処に、侵入者とな」
微かに渋面を作った侍女は視線をす、と伏せた。参内の赦しを得る事が出来たらしく、直ぐに上げ、付いて来いと視線だけで促す。
外を護っていた女達はその場で踵を返した。彼女達は奥の宮のこの建物に足を踏み入れる事が出来ない。それは真の忠誠と力とを鬼神に認められた栄誉ある者にしか許されないからだ。リンクの妹分である少女も、何時かは此処奥の宮仕えになることを目指して文武の道を邁進している。
他の何処よりも厳重に護られたその最深部の御簾の前。そこで先導を勤めた侍女はその場で床に額づき内側へと声を掛けた。リンクも従い同じ姿勢を取る。
「外守より内守へ申し上げます。「表」のリンク補佐官より大后様へお目通りの奏上がございます」
「大后様はご拝謁を賜るとの御由。補佐官殿、内へ」
「御意」
御簾はするりと音も無く上げられた。侍女は額づいたまま動かない。赦されたリンクは頭を上げてその御簾の内に膝行する。その内側にはもう一枚の御簾、その直ぐ傍には更に二人の侍女――――――先導役とは違い、裳までつけた正装姿の彼女達は此処に仕える女でも最高位である事を示している――――――がいた。リンクが内側に入りその前で再び額づくと、外側の御簾は下ろされ内側の御簾が半ばまで上げられた。
「――――――何用だ?」
低く落ち着いた声が内側から掛けられた。