「奥の宮様に置かれましては、ご機嫌麗しく…………」
「間怠い挨拶など捨て置け。まさか機嫌伺いで此処まで来た訳でもないだろう」

 ぴしゃりと言いつけられ思わず額づいたまま背を震わせる羽目になる。
 顔を上げろと命じられゆっくりと視線を上げた。
 御簾越しに微かに透ける姿に、ぞくり、と魂が歓喜に震える。
 かの女神の存在は鬼妖にとって幸いだ。鬼妖の主神、鬼神の妃。新たなる鬼神を産み出す存在。その胎内には既に新たな神が息づいている。
 故にリンクは、いや全ての鬼妖は彼女の存在を歓喜し、畏怖し、尊ぶのだ。それらは感情も理性も越えた先にある、鬼妖の本能だった。

「…………狐の王が、此処に侵入せんと企んでいます」
「狐?」

 呟いた御簾の向こうの貴神はやや間を空けて、

「狐の王が何用でだ。もしや鬼神の子でも狙いに来るか? 無謀だな」

 言いながら彼女は膨らんでいる己の腹を労わるように撫でた。

「狐の王の真意は分かりかねます」
「計算高い狐にしては、随分と愉快な事を企む」

 微かに面白がるような色を声に混ぜ、そして彼女は立ち上がった。
 周囲に控えていた女達に動揺が走り、

「大后様、」
「面白い、此処に籠められて退屈していた所だ。客人として招き入れてやろうか」
「お控えくださいませ、大后様!」
「主上が何と仰るか、」

 嘗てこれほどまでに、奥の宮に仕える侍女達の動揺した姿を見たことは無かった。諦めさせようと手を伸ばす彼女達は、主の神気に当てられその衣装の裾に触れることすら出来ていない。
 勿論立場から言えば止めるべき――――――何故なら主神である鬼神からの勅命があるので――――――リンクには、しかしながら自分よりも上位の力を持つ女達にすら手におえない奥の宮の女主人に打つ手など無かった。

「問題ない。――――――本当に止めたければ直に本人が出張ってくる」

 御簾を跳ね上げ、リンクと同じ場に姿を現した彼女を不意にまじまじと見上げ、リンクは呼吸の仕方すら忘れていた。
 奥の宮の女主人、鬼神の后。龍神と雷神の血を受け継ぐ高貴な神。
 漆黒の髪を下ろしたまま、控えるリンクにではなく外と廊下とを隔てる結界を薄い笑みで見つめるその横顔は、彼女がまだ神性を得ておらず「人」だった頃を思い起こさせる。
 女達の懸命な説得に耳を貸すことも無く結界を眺めていた彼女がくつり、と笑った。

「狐か。…………互いに狐に縁があるとみえる」

 彼女の言う「狐」に思い当たることがあるリンクは、漸く額づいた。
 果たして女主人はあの「狐」を見て何というか。――――――鬼神はどう弁解するのか、そんな考えても詮無い事を考えながら。

 

 

 

「…………流石にこれじゃ入れないなぁ」

 とても師匠の趣味とは思えない庭園の一角。庭園と屋内とを区切る廊下には、これまで見た事も無い位の厳重な結界が敷かれていた。流石に神の一柱が明確に他の排斥の意図を持って作り上げた結界は破れない。
 台盤所から失敬してきた焼き菓子の最後の一つを口の中に放り込んで、頬杖を付いて結界を眺めた。

「残念。折角此処まで来たのに」

 伸びを一つして、「本物」の青空を仰いだ。師匠のお妃様は随分と優雅な所に住んでいる。わざわざ手ずから創ったんだろう、そこかしこに師匠の気が満ちていて落ち着くような落ち着かないような不思議な気分にさせられた。
「閉じ込めたい」のも「護りたい」のも「隠したい」のも、全部本当なんだろう。

「リンクに捕まる前に帰ろうかな」

 捕まったら最後説教責めだ。どうせ気付かれてるんだろうし、目的が果たせないと知った今長居する必要は無い。
 踵を返そうとして――――――響いた声に思わず足を止めた。

「出て来い狐。――――――そこに居るのは分かってるんだ」

 やや低めの女性の声が響いた。
 途端、「見られている」落ち着かない気まずさのような物が身体を包んだ。
 流石は若いとはいえども神の一柱だ。ぶっちゃけ年若いお妃様だけなら誤魔化しきれるんじゃないかと踏んでいた僕はどうやら甘く見すぎていたと理解する。

「茶位なら飲ませてやる。――――――来い」
「あれま」

 思いがけない言葉に思わず目を見張った。…………お招きなら応じない理由が無い、僕は侵入者なのだけれど。
 そもそも僕の侵入に気付かれていた時点でこの空間から放り出されなかったのは、ある程度彼女から僕は許容されたって事だろう。
 取るに足らない狐の一匹、そう思われているのだろうと思わず口の端を吊り上げた。
 まぁ、いい。元々の目的は師匠のお妃への挨拶だ。身を隠していた一角からふらりと出て、建物の方へと近づく。
 やっぱりそこにいたリンクや、廊下に出ている高位の女鬼達の射殺さんばかりの強い視線が何処か心地良い。狐の群れに居ると、彼らから向けられる視線は何時だって恐ればかりでまともに視線を交わすことすら無くなっていたから。
 これ以上周囲の彼らの怒りを買って放り出されないよう、形ばかり頭を下げて膝行することで敬意を示す。顔を下げても尚容易く分かる強い神気の持ち主が「彼女」だろう。
 さて第一声は何か。無断侵入への非難か、それとも誰何か。或いは全部無視して本当にお茶が始まるのか。少しばかりわくわくしながら頭を垂れていると、降って来た声はその予想のどれとも違う、
 
「――――――あ?」

 戸惑ったような声だった。