「――――――?」
「その妖気…………。お前、アレンか?」
「…………え、」
名前を…………。
いや、名前を知られていること自体は不思議じゃない。僕と顔見知りのリンクだってそこにいる。高位の神が妖の名を識る事など大して難しくは無いだろう。
不思議なのは、何故戸惑った様子なのかと、それから――――――感じる神気が、酷く甘く懐かしい事だ。
ぶるり、と一度身震いした。それは恐れではなく、歓喜。
庇に降りてきた女神を見て、堪え切れずに仕舞っていた九本の尾がぶわりと広がった。
ああ、僕は彼女を知っている、知っているとも!!
「――――――神田!!」
この目に映る世界がまだ優しくて美しい色合いだった頃。
僕の手を引いてくれた、二人の人間。
優しいばかりではなかったけれど、それでも尚、求め焦がれ、何処かで転生の輪の中にいる筈だかと再会の望みを捨て切れなかった相手達。
立ちあがって、駆け出した。彼女の足元、庇の元に駆け寄って――――――
――――――バチッ!!
「「!!」」
鋭く火花が散った。伸ばした腕は焼け焦げている。二、三度振って治す間に、驚いたように目を見張った彼女がふと眉根を寄せて虚空を仰いだ。
良く知る気配に僕も同じく、そこを見上げる。いつの間にか周囲の鬼達はその場でひれ伏していた。
「ったく…………おいアレン、誰が何時此処まで入ってきて良いっつった?」
鬼妖の主神、創世の神の一柱。鬼神の名を持つ僕の師匠がそこに佇んでいた。
「師匠、」
「ユウ、お前もだ。外に出るなと言っただろうが」
溜息と同時にそう言った師匠。――――――思わずぞわりと悪寒が走った。庇から、凄まじいプレッシャーを感じる。
無言で師匠怒気を纏いながら睨み付けるお妃様、神田の神気は酷く荒々しい。流石は荒つ神である雷神と龍神の血統に連なる神だ。ピリピリと肌を指す神気を纏ったまま彼女は片手を挙げた。
「大后様!」
右往左往する事すら出来ずにその場でひれ伏したままの女鬼達、逆に呆然と立ち尽くすリンク。
狐の長の名を預かる僕ですら、指一本動かすのに苦労する。
挙げた片腕に雷を纏い、彼女はそれを師匠に向かって叩き付けた。
生木の焦げる匂いの立ち込める庭。視界の端にあった美しい巨岩は真っ二つになっている。手入れのされていたそこを一瞬にして焦土にした神田は、衣装以外は全くの無傷のままの師匠に、低く唸った。
「あんた言ったよな。――――――あれは、あの狐はもういないと」
「、」
何時の間にか僕は死んだ事にされていたらしい。
答えずに神田を見返すだけの師匠に、神田は更に苛立ったらしい。パリ、と再びの雷の気配が渦巻く。
そんな彼女にもう一度溜息を吐いた師匠は、
「もう止めろ、腹の子に障る」
「――――――っ、あんたがっ!!」
怒髪天を突く、とはこの事だろう。
今度は庭中に、何時の間にか暗雲の立ち込めている空から雷が落ちてきた。それでも僕の半径一メートル程だけには全く何も降ってこない所を見ると、彼女の中にも一応理性は残っているようだ。
雷に打たれても堪えた様子の無い師匠は怒り狂う彼女を宥める――――――身重の自分の妃だ、力ずくで止めるのではなくて言葉で宥めたいんだろう――――――算段を立てているらしく、微かに目を細めて思案顔。その頬に雷が傷をつけたけれど、それを気にした様子は無かった。
まるで豪雨の時の雨のように雷が降っていたのが、唐突に止んだ。晴れた視界の先には庇の上でくたりと座り込んだ神田が見える。力を使い果たしたのか、お腹に手をやりながら下を向いていた。
「か、」
「あぁ、言わんこっちゃねぇ」
今度こそ舌打ちした師匠がその場から姿を消して、庇の上に現れた。
「大丈夫か」
そしてその肩に手を掛けようとした瞬間。
ゴッ!
「っ!」
「ざまぁみろ!!」
神田に思い切り頬を殴られていた。…………師匠かわいそう………。
今までで一番効いたのか、それともあんまりな自分の妻の態度にやられたのか、殴られた師匠は暫く無言だ。流石に怒ったんじゃないかと――――――周囲の女鬼やリンクの顔色が真っ青な事からも同じような不安、いや、恐怖を感じているのは明白だ――――――思ったけれど、予想に反して師匠はそのまま神田を抱き上げた。
「放せっ」
「ガス欠してんのは事実だろう。いいから休め。文句なら後で幾らでも聞いてやる」
…………驚いた。師匠はあんなに寛大だっただろうか。
確かに昔から、彼女がまだ「彼」で「人」だった頃から、とても彼にだけは甘かったのは覚えている。僕の世話係に任じられていた鴉の長は、「鬼神の旦那のあれも大概だよな」と苦笑していた位だ。
その時の彼はまだ師匠の子を易く産むのには足らない存在だった筈なのに。
庇から廊下へ、それから御簾の向こうの部屋に戻ろうとした師匠は思い出したように足を止めて僕に向かって振り向いた。
「これは当分は面会謝絶だ。鬼神の血統に他の気配を混ぜられちゃたまらん」
「ふざけんな、あんた俺にあと何人産めっつってたよ!!」
――――――そんなの、無い。
だって神を一柱産み落とすのには百年は掛かる。師匠が直ぐに次の子、またその次と望むなら、じゃあ僕は一体何時になったら神田の傍にいけるんだ!?
抗議の怒声を上げる神田を連れて師匠がばさりと御簾を下ろした。強い結界を兼ねるそれに遮断されて、僕から気配を探ることは出来なくなる。
暫くその場で唇の端を噛んで、二人が消えた先の御簾を睨み付けた。
隠すなら、暴きたい。
護られてるから、奪いたくなる。
――――――傍に居たいだけなのに。
ただそれだけで良かったのに。