昨夜のナイトキャップが変な感じで残っている。
何処か重だるい頭で、目を覚めたのは昼近いような時間だった。我ながら何しに此処に来たんだか良く分からない。
微かに胸のむかつきのような物を覚えながら食堂に向かう。絡まれなきゃいいけど、と何処か人事のように考えながら――――――ふと視線が廊下の奥に縫いとめられる。
自分のタイミングの悪さを胸の中で罵り、さてどうしたものかと思考を巡らす。
向こうはまだこちらに気づいていない。踵を返して去ってしまえばいいだけだ。だけど。
微かな躊躇の間に、奥の相手は俺に気づいた。逃げ去ってくれ、という俺の願いに反して小さな足音を立てて近寄ってくる。
此方から逃げてしまえばいいだけなのに体が縫いとめられたかのように動かない。呼吸が焦りで少し早くなった。
やがてはっきりと互いが判別できるほど近くにやって来た少女は、
「――――――…………」
物言いたげな顔で、俺を見上げた。
小さい。あの時の子なんだから、六、七歳だろう。近くにユウの姿も、兄の姿も、ついでにアレンの姿も無い。
何の用、と無言のまま小さな黒い瞳を見返すと、
「…………。父、様? なの?」
暫くの沈黙の後、ぽつり、と少女は、娘は呟いた。
――――――あぁもう! こんなの、何て答えればいい!?
真実を告げるのは簡単だ、頷けばいい。だけどそれが、やがてまた此処を去る俺が父親だなんて事実はこの子にとって何の利も齎さない、その位分かってる!
ひゅ、と少しだけ喉が鳴った。
偽る事と、それが真実でない事くらい簡単に勘付くであろう少女を敢えて傷付ける罪悪感に一瞬目を閉じて。
「…………違うよ。お嬢ちゃん、そんな事言ったらおにーさんとおかーさんに怒られちまうさ?」
「…………。」
その偽りの意味は、単純に拒絶だ。
案の定、一瞬驚いたかのように目を大きく見張った少女のそこには透明なゆらぎが浮かび始める。
零れ落ちる寸前に指で目元を撫で――――――そして瞬間背後から向かってきた殺気にぞわりと背筋が粟立つ。
鬼か蛇か、と覚悟を決めつつ振り向くとそこにいたのは予想だにしない相手。いや、いて当然だ。当然だったけど。
「――――――ただいま、ユイちゃん」
にこり、と笑顔を浮かべた記憶の中の姿よりも大分大人びたリナリーが、俺を通り越して少女に声を掛ける。それから、
「…………久しぶりね、ラビ」
ぞわぞわとした寒気に、思わず首筋に手を当てた。
「リナリーお姉ちゃん、」
「おいで」
リナリーに呼ばれた少女は駈け出した。駈け出して、リナリーの膝に飛びつく。あらあら、と呟いたリナリーは屈み込んで、それから少女の異変に気づいたようだった。
「…………どうしたの? 転んじゃった?」
「…………」
ふるふる、と首を振る少女にそう、と呟いたリナリーはゆっくりと顔を上げて、それから剣呑な光を目に宿して俺を見据えた。
「――――――ラビ。ちょっと、付き合ってくれるかしら」
爆音に近い音が響いた。
誰かが訓練中だろうか。それにしては、随分と派手だ。大体こういう音が立つほど派手にやりあうのは今はアレンとコウ位なものだが、その二人は今両方共此処に居る。
「誰ですかね?」
アレンも呟いた。今教団本部で待機中の面々を思い返しても思いつかない。それは他二人も同じようで、訝しげな表情をしている。さては元帥の誰かに気の毒なエクソシストの誰かが掴まったか。
「そういえば、ユイは何処に?」
「リナリーを迎えに行った。昨日一日、私用で街に降りていたらしい」
「成程。どうりでコムイさんが把握してなかったわけですね」
「リナリーを探してたのか?」
「そのようですよ? 見つからなくて何時もどおり悲鳴を上げてましたから」
どうやらコウもその現場を見たのか、無言のままうんざりした表情を浮かべている。
まだ未成年だった頃ならば歳の離れた兄であるコムイの過保護振りにもまぁ納得できる所も無くはなかった。が、今のリナリーは妙齢とも言える年齢の上にエクソシストとしても長い経歴を持っている。そんなリナリーに未だに昔どおり過保護するというのは、いい加減如何なものか。
「と、するとリナリーか?」
「…………誰と?」
「…………?」
容赦無いキレで顔面狙いで飛んできた爪先を大きく仰け反ることで躱し、ついでにこっちも足技で応戦する。とはいえ黒い靴のリナリー相手に足技じゃ余りに分が悪い。
間を取ってこっちもイノセンスで対応したい所だけどそもそも間を開けさせてくれそうにない。機動力じゃあっちの方が圧倒的に上だ。しかも俺の記憶の中よりも断然強いし早い。
案の定飛び退って逃げようとした瞬間足払い――――――というより足首破壊の蹴りだ――――――を掛けられ、その場で仰向けに転がる羽目になる。
ダンッ!!
「っ!」
――――――怖ぇ。
仰向けの俺の顔から僅か三ミリ程度離れた所をリナリーが全力で踏みぬいた。強化金属で作られている筈の修練場の床がひび割れて破片で頬の薄皮一枚が切れる。
「ラビ、私がどうして怒ってるか分かるかしら」
「…………大体は」
「大、体?」
ゆっくりと一文字一文字確認するように呟いたリナリーは笑った。無論剣呑な方の笑顔で。
「本当に分かってるのかしらね」
「…………」
さぁ。と言いたいところだけどまだ後継もいないし死にたく無い。
黙り込んでいると、溜息を吐いたリナリーが足を退けた。ついでに手を伸べてくる。
手を取るのに一瞬躊躇したけど取らないと取らないで後が怖い。
リナリーに引き起こされ、口を開こうとした瞬間。
「――――――くたばれ下衆野郎!!」
盛大な怒鳴り声と共に、直ぐ隣に上から何かが、いや誰かが降ってきた。
確認する前に回避だ。リナリーは一歩たりとも動かない。当然のように狙いは俺だろう。
どこから飛び降りて来たのか、息子は敵意に燦々と輝く瞳で俺を睨みつける。
「チッ、外した…………」
「ただいま、コウ君」
「おかえりリナ姉。ちょっと下がってくれ、コイツぶっ殺すから」
「殺すなんて物騒なこと言っちゃ駄目よ」
いやついさっきまで殺されそうだったけど…………。
「嫌だ」
「せめて半殺し位で我慢しなきゃ」
…………せめて?
剣を抜いた相手が俺に切っ先を突きつける。
「俺はコイツがのうのうと息してる事自体が許せねぇ、しかもその上にヘラヘラしてる事がもっと許せねぇ」
「嫌われる理由には心当たりがありすぎるんだけどさ、随分な言い様さね」
「うるせぇ黙れ喋んな息すんな!」
一息で吐き捨てた息子が斬り掛かってくる。その位読めてたから逃げた。
逃げるか応戦するかどうしたもんか、と改めて見据えた瞬間。
――――――眼帯の奥に、突き刺すような痛みが走った。
「っ!?」
「…………!」
思わず眼帯の上から抑える。こっちだけだ。何だ!?
その感覚には一度だけ覚えがあった。初めてジジィと引き合わされた日、俺が名を捨てブックマンの跡取りになる事を決めた日。俺の「眼」とがジジィの「眼」と共鳴した瞬間。
何で、誰とだ!?
「…………っ!」
って、そんな事考えてる場合じゃ…………、え?
斬り掛かられるのを予想してたのに、実際には向こうは肩膝付いて顔右半分を覆っていた。リナリーが抑えている。
――――――まさか、もしかして…………
「どうしたの!?」
「…………ちくしょ、…………っ!!」
――――――まさか、いや、まさかだ。
だけど、他に誰がいる!?
確かに条件としちゃ不足は無い。現ブックマンの俺の血を引く子供なら寧ろ当然ともいえる。
だけど、よりによってどうして――――――ユウとの子が…………
「…………最悪だ」
呟いた声が自分のだったのか息子のものだったのか、それすら分からないほどに俺は驚愕していた。
リナリー様降臨。
息子は完全に自爆。一番知られたくないことを知られたくない相手に自分でバラした。
2011神田誕生日記念特設ページへ
小説頁へ