離宮に一歩足を踏み入れるとそこは外界とは隔絶された静寂の世界。静かに、と無言の重圧を掛けられてるみたいだ。
侍従達は私語などは以ての外、足音一つにまで気を配り、僕らの前でも必要最低限度の事しか口にしない。
それほど多くはない――――――いや一国の王太子妃の身の回りに仕えている事を考えれば少なすぎる程だ、普通であれば数十人いるのが当たり前だ――――――侍従達は、全員姫宮様が輿入れの時に伴って来た東の国の人間だ。姫宮様は御身の周りを東の国から連れてきた彼らにしか任せない。王城の侍女達の中にはそれを不満に思う向きもあるというけれど、頑なな姫君様は侍女増員を申し出ても絶対に首を縦には振らない。聞くところによると姫宮様は基本的には日常の身の回りの事は自分でこなし、実に質素な生活を送っていらっしゃるそうで、実際それほど人数がいらないという事もあるらしい。
まぁ…………予算が掛からないのは有り難い事なんだけど…………
主に師匠(と、その寵姫の人達)の所為で王室経費は常にギリギリだ。結婚を機に僕らと師匠の経費は別会計になったけれど、「師匠の」足りなくなった予算を補う為に姫宮様が自分の化粧料と拝領地からの税収を回させた、なんて財務官から聞かされた時は唖然として、その後慌てて離宮に走って謝り倒す羽目になった。
『お気になさらず。元は貴国の物です。私はそれをお返ししたまで』
そう静かに首を振って伝えてくれた彼女にはお礼にもならないけれど僕の領地で取れたお茶を贈った。他国から輸入した質のいい葡萄酒も考えたけれどお酒は召し上がらないという事だったから。
足早に姫宮様がいるであろう辺りに向かうと、その途中で姫宮様付きの侍女と出くわした。
彼女は足を止め丁寧に腰を折り、少し辿々しい此処の言葉で僕に挨拶してくれた。
「これは、殿下。ご機嫌麗しゅう」
「ああ、こんにちは。姫宮様は今どちらに?」
「宮様は執務室の方にいらっしゃいます」
「分かりました、ありがとう」
彼女とすれ違い、執務室がある二階に向かうため階段に足を掛けた。
「ご機嫌いかがですか、姫宮様」
「…………」
ライティングデスクに向かって何やら書き付けていた姫宮様は、顔を上げて僕を見た。
立ち上がりかけたのを手で止めて、彼女に近寄る。
「…………?」
何用、と問いたげな姫宮様の表情に小さく笑う。今は確かに執務時間中であってふらふらしていて良い時間ではないから。
「し…………陛下より、貴女の領地運営のサポートをするように仰せつかったので」
彼女には婚姻の際に、王都周辺の中規模の街が王太子妃直轄領として献上された。いずれも前の領主が税金の不正などの件で立場を追われ国庫に返還された領地だ。
嘗ての領主に重税を課せられ不当に労働させられた領民達の間では、新たな領主に対する不安が渦巻いているようだった。
領民達の代表が城に嘆願に来たのがつい昨日。直々にそれを聞いた師匠は僕にサポートを命じた訳だけど…………。
「…………」
姫宮様は手元の紙を何枚か捲り、数枚の書類を僕に向かって差し出した。
「領地運営の書類ですか? …………ん?」
てっきり、税率改正とかのだと思ってたんだけど…………違う。公営施設? 慈救院?
これは、と書類から目を話し姫宮様を見ると、彼女は影の様に控えていた侍女長に目をやった。
「失礼いたします、殿下。姫様は早急にそちらに記してあるような施設の開設を望まれておられます」
「慈救院とは?」
「病める者、貧しい者、親を亡くした幼い孤児達を集め衣食住を与え教育と治療を施す施設でございます。東の御国では、大きな都市には必ず一つございました。勿論仮称でございますので、こちらに馴染む名称に変える予定ではございますが」
「へぇ…………」
それは良い事だ。元々、議会でもそんなような施設の構想は出てるけどまだ正式な決定には至っていない。
「そうですか…………それを前例として、陛下に各地への建設勅許を頂きたいものですね」
「ええ。是非殿下にもお口添えを頂ければ、と」
侍女長と姫宮様がちらり、と視線を交わした。
心得た、とばかりに侍女長が別の紙束を僕に向かってさし出してくる。
「これは?」
「伴いまして、拝領地の税率に若干の変更を。これまでは一律でございましたが、貧困者と老人のみの世帯につきましては税率を多少下げようかと」
「ああ…………」
何だ、これだけ手堅くやってるなら僕の手助けなど何も要らないだろう。
数字もけして悪くない。国有地のそれよりも、ほんの僅かに低いくらいだ。
「ただ、周辺都市と余りかけ離れても宜しくないでしょうから、それらは諮りまして追々」
「ええ」
トントン、と姫宮様は持っていた書類を机の上で揃えて右端に置いた。
「?」
「殿下、お茶は如何でしょうか」
「あぁ!」
そんな時間なんだ。
「では…………お言葉に甘えさせていただきます」
一つ頷いた姫宮様は手元にあった銀色のベルを一度鳴らした。
お茶の準備は直ぐに整えられ、僕と姫宮様だけの小さなお茶会が始まった。
翠の美しい色合いのお茶は東国の物らしく、最初含んだときはその渋味に一瞬固まったけれどよくよく味わえばこれはこれで、美味しい。
果実に砂糖を溶かした物を掛けたお菓子がお茶請けとして出され、僕はそれを楽しみながら目の前の姫宮様を鑑賞する。
相対するといつも伏せ気味になる彼女の眼差しは、けれど正面で見てこそ美しいのに。と少しだけ残念に思った。
「…………姫宮様」
「?」
「何か、こちらで至らぬ点はありませんか? お困りのことなどは…………」
「…………」
ふるふる、と横に首を横に振る。
それなら、良いのだけど。
さらり、と揺れて首筋に掛かる艶やかな絹糸に、僕は叶うことのない望みを抱いた。
茶碗も空になり、僕は姫宮様の居室を辞した。
王城へと戻り途中の道ではた、と足を止める。
そう言えば、折角頂いてきた書類を忘れてきた。
人をやって取りに行ってもらう事もできるけれど大した距離じゃない。自分で取りに行く事にして、僕は今一度踵を返した。
姫宮様の居室の中からは、話し声がした。
「…………殿下のご側室のご決定は、まだだそうでございます」
「そうか…………」
誰、の声?
「どうか善き方を見つけていただけるよう、私共もお祈りしておりますが」
「そう、だな」
「そう言えば、姫様。御母堂様からお手紙が…………」
「寄越してくれ、返事を書こう」
だって、コレは…………
ガチャッ、
「姫宮様!? 今、誰が――――――」
「――――――っ!?」