「ん…………」
ふわり、と鼻をくすぐる異国の香りに僕は眼を見開いた。
目を見開いて最初に視界に入ったのは、艶やかな絹のような黒髪。
…………あの後。
緊張の糸が切れたのか、崩れ落ちるようにして気を失ってしまった彼を抱いたままベッドに入った。
文字通り「抱いた」だけだったけど。
頬に掛かる黒髪を軽く手で払いのけ、彼の整った顔を眺める。
魘される事も無く、穏かな眠りの中にいるようで、僕はほっとして溜息をついた。
――――――彼が、男だった。
それは確かに衝撃ではあったけれど、しかしそれは僕個人にとっては今となっては大した事ではなかった。勿論公の身としての、子を遺す事を期待されている「王太子」としては、正妃が男性というのは大問題であったけれど。
けれど元々閨を共にしないとの条件での結婚だ。彼との子は望める訳も無く、そういった意味では全く問題にならない。
「…………」
あぁ、朝議の時間が…………
まぁいいや、妃の元にいた、ただそれだけで欠席も許されるだろう。何せ師匠ときたら朝議の時間にきっちり間に合って来た試しがない。
それから僕は控えめな音でノックがされ、侍女長が僕らの着替えを持って入ってくるまでずっと彼を見つめていた。
侍女長は僕らの様子が穏やかだった事にホッとした顔をして、着替えを置くと、
「ご朝食のご支度をさせて頂きます」
そう言ってまた出て行った。
彼女が入って来た事により目を覚ました姫宮様――――――いや、「姫」じゃないか――――――は少し戸惑ったような顔で、またベッドの上でちょこん、と正座している。
「お着替えに手伝いはいりますか?」
「…………」
ふるふる、と顔を横に振った彼に侍女長がおいて行った着替えを指し示すと、彼はベッドから降りて自分でそれを取りに行った。
それから部屋を見回して、衝立の影にさっ、と隠れた。同性か異性かを問わず、人前で肌を晒すのが嫌だったらしい。
彼がそちらで着替えを始めたので僕もベッドの方で着替えた。別段彼の視線を意識する必要はないので、僕は隠れない。
交互に顔を洗い、彼が髪を結い上げた所で僕らは揃ってソファーに掛けた。若干遠慮するように隅に寄る彼に、敢えて近付く。
「、」
「逃げないでください。それと、声を聞かせて」
「…………しかし、殿下、」
「言ったでしょう? 本当の夫婦になって欲しい、って」
「…………」
僕の言葉の真意を考えるようにして目を伏せた彼の耳元で、そっと囁いた。
「今夜、君を抱きに来ます」
朝食を二人で取り、それから僕は公務のために自室に戻った。
寝室に来なかったことに不審げな顔をしている自分の侍従達のもの問いたげな視線は笑顔で黙殺し、それから。
「今夜『も』離宮で寝ます。向こうに僕の寝具を運んでおいてください」
「! 畏まりました、殿下」
結婚以来碌に妃のもとに渡らない僕に侍従達が心配していたのは知っている。
僕が告げた言葉にぱっ、と顔を輝かせた彼ら――――――最も世継ぎを望む、そんな彼らの望みは一生叶えられない――――――に少しだけ罪悪感を感じながら、僕は机に広げた書類に目を通した。
昼頃。
昼食をどうしようか、離宮に行って宮様と一緒にしようか…………そう考えていると、僕に呼び出しがあった。
「殿下、陛下がお呼びでございます」
「…………師匠が?」
なんだろう。胡散臭いなぁ…………。そして嫌な予感しかしない。
昼食の予定を諦めて、国王の執務室に向かった。
「何か御用ですか? 師匠」
「珍しく朝議に出なかったな」
「はぁ、まぁ」
因みに朝議に出るのは王太子の僕には義務じゃない。
朝議の結果は後から大臣から伝えられるけど、その手間を省略しようと出ているだけだ。
「それで、妃の所にいた、と」
「…………何か問題でもありますか?」
因みに東との契約を破るような真似はしていない。今の時点では。
今夜はするけど。
そう答えると、師匠はじっと僕を見て、
「お前、男も行けたのか」
「…………え゛」
…………ちょっと、ちょっと待って下さい!?
「男、って」
知ってたんですか!?
「あんなガタイのイイ奴が東の女の訳がねぇだろ。お前は見たことがねぇだろうがな、あっちの女は揃って小さい」
「…………知ってて、何で」
「別に男だろうか何だろうが、向こうで間違いなく皇女だったならそれで構わん。ガキも作らん約束だ、それこそ寄越されたのが動物だって構いはせん」
いやいやいや、僕は構いますよ!? 動物は無理ですよ!?
「だが、それならそれでいい。いくら顔が女のようでも男が妃じゃ気の毒かと思ったが…………」
「…………」
…………。
「まぁ好きにしろ。あぁ、そう言えば側室は選んだか」
「要りません。子供は師匠が作ってください」
「言うと思った。ったく、面倒事押し付けやがって」
「元は師匠がその面倒を僕に押し付けたんでしょう?」
暫く不毛な言い争いをして、結局僕は側室を「持たない」権利を勝ちとった。
「式部、」
「はい、何でしょう?」
「知らぬと承知で聞くが。…………お前、男同士が契る方法を知っているか?」
彼の侍女長は、ポカン、とした顔をして主を仰いだ。
彼女にとって彼は、産まれたときから見守っていた子供だ。
元はといえば同僚が帝に見初められて産んだ子である。尊い血を引く尊い方である筈が、周りの環境の為にこのような苦境に身を置くことに、と何時も心を痛めていた。
此処への輿入れ時には涙ながらに後を頼まれ、生母の分まで愛し、守るのだと生母に誓った。
そんな侍女長は、再度己の主、東の「姫」であり此処の王太子の「妃」である青年を見つめた。
「…………は?」
そんな主の重要な秘密を、彼自身の伴侶たる北の王太子に知られてしまったのは昨日。
王太子が帰ってから、咎めはないこと、秘してくれることを聞いた侍女長はほっと胸を撫で下ろした所だった。
だが。
「殿下に夜伽をと言われた。既に俺のことをご存知ゆえ、断る理由はない。だが…………」
困り顔で首を傾げる主に思わず開いた口が塞がらない。
彼女の主は、歳の割には世俗に疎い。
それは産まれが高貴であることよりも、寧ろその身の秘密を守るため世俗と遠ざけられ、母や侍従達のみに周囲を囲まれ育った所為なのだろう。
年頃になっても女を求める事もなく――――――そもそもそれは許されない事だった――――――慎ましく生きてきたのだ。
そんな純粋培養な主の発言に、侍女長は絶句するしかなかった。
「寝所での振る舞い方など知らん。…………式部、俺はどうすればいい?」
そして勿論彼女とてそのような事を知るはずもなく。
「全て王太子殿下にお任せするのが宜しいかと」
そう答える他、無かった。