確かに今この瞬間まで此処にいたのです。袿からは温もりを感じます。
 しかし今、何処にもかぐや姫の姿は見えません。――――――それどころか、気配すらありません。

「…………何だ、?」

 帝が残された袿を掴みながら呆然と立ち上がると、外から足音が聞こえてきました。


 パタパタパタッ

 
 ガラッ、


「神田どうしたの、声…………が…………?」

 恐らくはかぐや姫の最後の悲鳴が聞こえたのでしょう、そこには息を荒げた少女が一人立っていました。
 帝の姿に驚いたのか軽く口許を覆いはしましたが、何処にもかぐや姫の姿が見えないことに気が付くと食って掛かりに来ます。

「なっ…………貴方、神田を何処へやったの!?」
「俺が聞きてぇ。…………今さっきまで此処にいた」
「っ、」

 その言葉に少女は――――――薬師の妹は、裸足のまま縁側へと飛び出します。

「神田、神田何処に行ったの!?」

 …………しかし悲痛な響きを持つその声に返事はありません。

「…………、」
「…………騒々しいと思ったら…………」

 何処か呆然と妹の姿を見ていた帝に、背後から男の声が掛かります。

「…………お前か」
「内裏からこんなところまで、お供もつけず一体何の用ですか、今上」
「…………」

 呆れた溜息混じりの当代一の薬師の言葉に帝が返す言葉を捜していると、涙すら混じった声で妹が叫びます。

「兄さんっ、どうしよう、神田が何処にもいないの!!」
「…………大方この男に無体を働かれそうになって隠れたんだろうね」

 帝の握る袿に大方の事情は察したとばかりに薬師が溜息をつきました。
 兄の言葉に、妹がきっ、と帝を睨みつけます。

「…………困ったね、あの子は隠れ鬼は抜群に上手い。見つけられるかどうか…………」

 これみよがしな溜息に、帝は。

「…………聞こえてるんだろう」

 空に向かって呟きました。

「…………悪かった。驚かしたな。…………もう無理はしねぇ」

 …………人に謝るなど帝には初めての経験です。

「神田君。この男もそう言ってるし、今は僕らもいるし。…………何よりリナリーが哀しんでる。出てきてくれないかい?」
「…………」


 薬師が重ねてそういうと、ふわり、とそれまで雲に翳っていた月光が庭に差し込んできます。

 …………そしてその光の下、庭に佇むのは――――――…………


「神田っ」
「リナリー、」

 姿を現したかぐや姫に、足が汚れるのも厭わず妹が庭へと飛び出します。

「――――――…………、」

 月光を纏って駆け寄ってきた妹を抱きとめるかぐや姫を、帝は言葉を続けずに見詰めます。
 …………常人では有り得ません。
 それは月光の元、微かに宙に浮いているのを見ただけでそうと知れました。

「…………」
「…………」

 そして帝とかぐや姫は互いに静かに視線を交わし合い――――――

「閨に入れろとは言わん。…………酒くらい付き合え」
「…………茶なら付き合ってやってもいい」

 渋々と答えたかぐや姫に――――――得たり、と帝が笑みを浮かべました。






 帝が辺境の田舎、かぐや姫の下までお通いになるようになって三月が経ちました。
 貴族、有力者の家の出である美姫を多く側室として持ち、それぞれの家の者があわよくば娘を皇后の座に―――――――と企んでいた矢先であり、後宮は蜂の巣でもつついたかのような大騒ぎです。
 元より、色を好みはしても美しい女を手に入れることに然程情熱を傾ける訳ではない帝のこと。
 わざわざ数時間はゆうにかかる道のりを二日と開けず通うその姿は、帝の本意が傍目からも感じ取れるものでした。
 ―――――――実際にはかぐや姫と帝の間に人々の邪推するような関係は、未だ無かったのですが…………。

 しかし、相手の親(代わり)による妨害で三月たっても未だに清らかな「茶飲み友達」としての関係を強いられている帝には―――――――最近、かぐや姫の様子で気がかりな事があったのでした。
 
 




「…………」

 縁側に出て皓々とした月を見上げ、かぐや姫は溜息を一つ。
 そんな様子を部屋の中から見ていた帝は微かに眉根を寄せてそれを見つめます。
 見られていることに気付いているのかいないのか、かぐや姫は尚も何処か寂しそうな眼差しで月を見上げます。

 …………それに気付いたのは、一月程前のことです。

 いつからだったのでしょう。かぐや姫が、月を見上げては溜息をつくようになったのは…………。


「…………何を考えている?」
「…………あ?」

 帝が声を掛けるとかぐや姫が振り向きました。

「月に魅入られたのか」
「…………、」

 ふるふる、と無言で首を振るかぐや姫。

「…………もう、疲れた。今日は寝る」
「…………」

 それ以上の追求を避けるかのようにかぐや姫は部屋の中へと戻ってくると、サッと御簾の中へと姿を隠しました。
 頑として口を割らない強情なその様子に、帝までもが溜息をついたのでした。


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