鉢かづき 十六
「…………。」
その夜は、肌寒い夜でした。
若様に乞われるままにその寝床に侍ったユウは、丑三つ時頃にそっと半身を起こしました。
隣では若様が安らかな寝息を立てています。
肌を重ねる、その意味など知りもしませんでした。
まさかそれが、若君に災いとなろうとは…………予想すら、していませんでした。
「…………ラビ、」
ユウは遠慮がちに若君を呼びました。
…………返事はありません。
「…………。」
小さくなった燭台の灯りを頼りに、ユウは若君の顔に自分の顔を寄せ、
そして、口付けをその頬に落としました。
「…………。」
無言のまま、褥から抜け出します。
ユウは名残惜しさと確認の為、部屋を辞する前に一度だけ、振り向いて――――――後ろ手に静かに、戸を閉めました。
さく…………っ
踏んだ枯葉が小さな音を立てました。
使用人小屋の裏に、荷を纏めた包みを置いたのは今日の夕暮れ。
月明かりを頼りに取りに戻ります。幸いにも、誰にも動かされていませんでした。
とはいえ、ユウの私物などそう大した量でもないのですが。
荷を纏めた風呂敷を手に、ユウは気配を押し殺しながら裏の小さな門へ向かいました。正面の門には不寝番がいる為です。
辺りからは虫の音がして、また、ススキが夜風に揺れています。
満月の為明かりが無くても足場に苦労しないのは幸運でした。
キィ、
門を開くと、小さな音がします。
そして、外に踏み出したユウに――――――
「…………何処行くんさ?」
「――――――!!」
抑えた声が、掛かりました。
ばっ!!
慌てて振り向いた先には、月を背に立つ、眠っていたはずの若君。
ユウがもう少し人の心に聡ければ、若君は今必死に激情と戦っていることが分かったでしょう。
けれど、ユウがそれを理解するにはもう少し経験を積まねばならないのです。
「…………何処、行くの?」
「…………」
重ねられた問いに答えられないのは答えがないからです。
路銀が尽きるまで、遠く…………此処からなるべく遠くへ行って、働き口を探すつもりでした。
最早家を出てきた頃のような無力な子供ではありませんし、ずっと問題だった鉢もありません。
此処を出ても、何処ででも働けるでしょう。
ですが、その宛てはまだありません。
「…………」
答えずに俯くユウに痺れを切らした若君は、間合いに踏み込むと乱暴にユウを抱き寄せました。
「っ!!」
「!」
しかし、これまでであれば大人しくそれを受け入れたユウが、今は暴れて若君から逃げ出そうとします。
それが益々若君を煽り、腕に籠められた力は増して痛いほどです。
「どうしてっ!!」
…………ギリギリと締め付けられるような痛みの中、ユウの耳には若君の悲痛な叫び声が届きました。
「どうして…………離れるんさ…………!!」
「…………。」
…………その声に逆に冷静になったユウは、ゆっくりと呼吸してから返しました。
「…………聞いた、」
「、?」
「俺がいるから、お前の縁談が流れかけているんだろう?」
「――――――、!」
その言葉に、驚いて若君が目を見張ります。
「何故そんな事を、ユウが知っているのか」頭の中でそれがぐるぐると回ります。
「俺にばかりかまけるから、お前の奥方となる姫様が、不快に思っているとも…………聞いた」
「…………ユウ、」
「お前がこの家を平らに治める為には、南の姫君との結婚が必要なんだろう? だったら、」
ユウは心を静める為に、目を閉じました。
「お前の未来の奥方となる方に疎まれる俺を手元に置き続けるのは、お前の誠意が疑われるだけだ」
「…………っ」
若君には返す言葉がありません。
一定の、ある意味でそれは事実です。――――――南の姫がそれを不快に思っている、とは知りませんでしたが。
「…………俺にとってお前は、主人で、恩人の子息で、――――――大事な友人だ。お前にとって災いとなると知っていながら此処にいることは出来ない」
…………だからどうか、その手を放せ。
ユウはそう呟いて、若君の胸を押しました。
けれど、若君の身体はビクともせず、回された腕の力が少し緩んだだけでした。
「…………ユウ。俺にとってはユウはね、」
若君がユウと目線を合わせます。
…………綺麗な翠が雨上がりの緑のように輝いていて、ユウはどきり、と心の臓の音を一つ跳ね上げました。
「従者で、大切な友人で、命の恩人で――――――誰よりも大切な、愛しい、人」
「――――――!?」
今度はユウが目を見張る番でした。
「な、」
「家を継ぐのにユウと離れなきゃいけないならいっそ――――――家督なんて誰かにくれてやる」
「っ!! お前、それはっ…………旦那様の事も考えろ!! たった一人の孫のお前が継がずに、」
「誰かが継ぐさ。別にどうしても俺じゃなきゃいけない理由は無い」
「旦那様は、」
「…………自由にしろって、言われたさ」
その言葉に、ユウの力が一気に抜けました。
…………ユウが知る由はありませんでしたが、ユウと若君の関係が公になるのと同時にそれは勿論旦那様のお耳にも入っていたのです。
若君とて跡取りを作ることを望まれる身――――――そう、本来ならばそう望まれる身です。となれば、何も実りはしない二人の関係等旦那様のお許しになるものではありません。
けれど、それに然程の理由がないのもまた事実。
元より正統な家の血を引かず、それでいて優秀を示した若君の例を鑑みても血など然程重要ではない――――――旦那様のお考えもありました。
優秀な者が跡取りであればいい、それだけなのです。それが実子であろうが、養い子であろうが、そんな事は関係なく。
それ故に、「好きにしろ」――――――そのお言葉があったのでした。
「ラ、」
「ユウ…………傍にいて?」
「…………俺は、男だぞ?」
不安そうに見上げてくるユウに、今更な、と思いながら若君は、大事な事を一つ忘れていた事を思い出しました。
口にしないでも分かってくれるなどと、それは無理な思い込みです。――――――特にユウのような人間にとっては。
それはずっと、自分のことすら自分で決める事を赦されなかった若君の、初めての決断でした。
「ずっと、一緒にいよう。 ――――――愛してる」
<続>
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