「…………」
鉢かづきは思わず溜息をつきました。
石を投げられるのは何時もの事。
しかし今回は、石ではなく泥の団子でした。昨日雨が降ったからでしょう。
白の衣服が泥塗れです。しかも、使用人小屋に置いてある替えの服は刃物でご丁寧に引き裂いてありました。
「…………」
誰の仕業か、など今更追及する気も起きません。
天気は良くはなく、洗ったとしても乾くまでどれ程かかるでしょうか。というよりも替えの服が無いのですからその間鉢かづきは全裸ということです。
それは流石に不味いのですが…………どうしたものか、と再度の溜息をつき、一人曇天の下へふらり、と出て行きました。
ぽつ、ぽつ…………
外に出ると道理で暗いわけです。雨が、降り始めました。
ぽつぽつとした控えめなものから、まるで桶の水でも引っ繰り返したかのような大雨になるのには、時間は掛からず――――――
「…………」
使用人小屋の外の狭い庇の下で鉢かづきは蹲りました。
「…………寒、ぃ」
風まで出てきたため、雨が直接当たって来ました。
手足を小さくまとめて、顔を膝に埋めます。
…………どれくらいそうしていたのでしょうか。
「…………ユウ?」
掛けられたその、声に。
鉢かづきは、顔を上げました。
「ほら、飲むさ」
「…………」
使用人小屋の廂の下で蹲っているところを若君に見つけられ、西の対屋の若君の私室まで連れてこられたところ。
泥に塗れていた衣服は、今若君のお古だという(それでも十分に綺麗なものなのですが)服と取り替えられています。
茶を勧められた鉢かづきは、恐縮しながら碗を受け取りました。
暫く氷のような冷たさの指先をその碗で暖めてから、一口飲みました。
冷え切った身体に熱い茶がじんわりと染み渡ります。次いで、安いものではないのだろう茶の香りと甘みをゆっくりと堪能しました。
「…………酷い事、する奴もいたもんさ、」
「…………」
若君が吐き捨てます。
…………鉢かづきへの嫌がらせとしてはけして珍しくない部類であり、怪我はさせられなかったのでまだマシな方だったのですが。
以前など、寝ているところを襲われ腹や背を木の棒や石で吐くまで散々殴られた挙句に「野良犬が人間の顔をして上がりこむな!」との罵声つきで小屋から放り出されたことすらあります。
其れに比べれば随分と、マシになった物です。
鉢かづきがそんな、嫌な記憶しかない思い出に思わず鉢の下で遠い目になっていると、
「ねぇ、ユウ。こっちで暮らさない?」
「?」
若君が、突然そんな事を仰いました。
意味を図りかねていると、重ねて若君が続けます。
「こっちの女中用の部屋、いくつか空いてるんさ。そこに入ればいい、」
「…………。」
鉢かづきは、無言で首を横に振りました。
そのお申し出は。
確かに有り難いものでした。
雑魚寝になる使用人小屋よりも、個室である女中の部屋の方が快適であるのは当然です。
けれど、屋敷の「中」で起居するのはあくまで主人一家の身の回りに仕える上女中や、商いの上でも重要な職に就いている者達だけであり、下級も下級、最下級といっても過言ではない風呂焚き如きが住んでいい場所ではありません。
家の「中」の者と「外」の者の間には、其れこそ主人と使用人と同じ程の身分の違いがあったのです。
「何で?」
「…………若様。その様に、お気を掛けて頂ける事には、真に感謝しております。…………ですが、俺のような者をそのように遇しては、他の者が不満を抱きましょう」
「…………。」
けして言いはしませんが、今回の事は、若君に召しだされるようになった事を嫉まれた事によるものでした。
一人を無闇に厚遇すれば、他の者は当然妬ましく思います。それが、普段自分達が馬鹿にしている者であれば、尚更。
「…………ユウ、」
「軒先暮らしの長い野良犬でございますので。部屋など戴きましても、持て余すだけでございます」
諦念、という言葉が似合う感情が胸を満たしていきます。
溜息を吐くのと同じ調子で、鉢かづきは呟きました。
自嘲気味に呟いた鉢かづきに、若君が痛々しそうに、顔を顰めました。
このように思う程に、思ってしまう程に、鉢かづきの歩んできた長くは無い人生は過酷なものだったのです。
若君は飢えた事はありません。怪我も、怪我らしいものは、ありません。
人に打たれた事等、精々悪戯が知れて祖父に叱られた時位。人に悪し様に罵られた事も、少なくとも正面切って、というものもありません。
仕える者と主人の差だと言ってしまえばそれまでです。
けれど、同じ歳の筈なのに、どうしてこう違うのだろう、と胸に鈍い痛みが走ります。
「ユウ、」
「…………」
「ねぇ。二人きりの時だけでもいいから…………ラビって呼んで?」
「!」
鉢の下の鉢かづきの表情は知れませんが、驚いたことだけは気配で分かりました。
「少しでもいいから、ユウと対等になりたい」
「…………は、しかし、若様、」
「ね? お願い、」
無理を通すと、鉢かづきが沈黙しました。
親しくなりたい、そう思いました。
それには、主人と使用人という身分の差が、邪魔でした。
ならばそれを取り払うには、どうしたら、と考えての事です。
「あと、敬語も禁止ね?」
「しかし、」
「最初に会った時、普通に喋ってくれたじゃん」
それは恐らく、主人の身内と知らずにやった事だという事など、知っていますが。
そう言うと、鉢かづきは沈黙しました。
「ね? 俺、言ったよね? 友達になって、って」
「…………」
重ねてそう続けると、やがて諦めたように。
「…………分かった、」
鉢かづきが、小さく返しました。
その反応に若君は満足します。
それは、いつの日か友として鉢かづきが傍にいてくれるようになるように――――――という遠大な計画の、記念すべき第一歩、なのでした。
…………キシッ。
廊下が微かに、軋みます。
若君の部屋の中を伺っていた人影は、静かにその部屋の前を離れました。
「一応申し上げておくとするか…………」
嵐もまた。
近づいてきているのでした。