シャワーを使い終えた神田はテーブルに突っ伏している。解いた長い髪が流れていた。
 あの後病院で軽く手当をされ(神田は大袈裟な、大丈夫だ、と繰り返していたが警察に行くように言われて渋々救急車に乗った)、警察と消防からの聴取を終えた神田をタクシーに押しこめデパートに向かい服を一揃えしてから家に戻った。
 神田が着ていた煤だらけの服は今洗濯中。風呂上りに一杯、気付けを兼ねて強い酒を勧めてからまだ僅かだ。

「片付けもあるだろうし、暫く会社休ませてもらったらどうさ?」

 と言ってもあの剣幕で燃えてたら、残ってる物など碌に無い筈だ。

「あぁ…………焼けたって連絡したら、明日会社から何人か手伝いに来てくれる事になった。落ち着くまで出社しなくてもいいとも言われてる。どっちにしろこの足じゃ出社しても役に立たないしな」

 言いながら神田は白く包帯の巻かれた足首に触れた。
 新しい会社では梱包や配達等の力仕事だというから、軽くとはいえ捻った足では難しいんだろう。

「…………。大事なモノとかあった?」
「いや、元々大してモノ持ってねぇし。古いものは皆実家だ」
「そりゃ良かった」

 グラスの縁を舐めるようにちびちび飲んでいる神田に合わせて俺も同じものを注いだ。
 縁から零れそうな程並々注いだ酒に神田がチラリと視線を向けてきた。良く飲めるな、とでも言いたそうだ。
 
「新しいアパートとか、探す?」
「そうだな…………。社員寮なんてもんは無いからな。今迄の所と同じ位の家賃で、同じ位の通勤時間…………そんな都合良くは行かねーか」
「うーん…………」

 一応都内だ。あの金額と同じアパートというと、とんでもなく不便かとんでもなく古いかの二択だろう。最も神田は古さはそれ程気にならないらしい。元々焼けた神田のアパートは築云十年の木造アパートで、俺は上がった事こそ無かったけれど外観を見て驚いたことがある。俺はこの部屋があるから入居していないけど、うちの会社の社宅は築年数の浅い高層マンションだったからだ。

「…………それにしてもお前、マジで良い所住んでるな。本当に一人で住んでるのか?」
「そう? 一人さ、以前は同棲してた事もあるけど」

 此処は七路線が乗り入れるターミナル駅の最寄り出口からは徒歩三十秒という立地だ。俺が親戚から相続した此処はファミリー向けの分譲だから部屋数も多くて広い。最も俺はベッドとパソコンを置いてある部屋の他は殆ど書籍を放り込んであるだけの、物置扱いをしてるけど。
 感心したように言った神田は舐めていたグラスにミネラルウォーターを混ぜた。因みにつまみらしい物はナッツだけ。残念なことに冷蔵庫は調味料と乾物が少し入っているだけでほぼ空っぽだ。冷蔵庫に至っては霜しかない。何せ俺は此処に帰って来るよりも会社に泊まる日の方が多いから、中に何か入れておく訳にも行かない。定期的にやってきて食料品を補充して、何かしら冷凍しておいてくれるような子とは、半年ぐらい縁が無かった。

「何でまた」
「あー…………まぁ、色々?」

 自慢でもないけど、俺はモテる方だ。中学生の頃から彼女が切れたことがなかった。少なくとも誰かと付き合ってる最中は他の女の子には一切手を出さない主義だからそれなりに誠実でもあるんだろう。いや、本当はバレた時が面倒って理由なんだけど。
 中学、高校、大学と順調に過ごして社会人。社内外合わせて学生の頃よりもずっと出会いのチャンスは増えたはずだけど、段々彼女がいない期間が出来てきた。理由は単純明快、俺の仕事の所為で、会える時間がまともに取れなくなったからだ。寂しい、とか、仕事と私どっちが大事なの、とか、そう言われた事は結構ある。
 出会いと別れを何回か繰り返して、最後に付き合った子とは、正直結婚という二文字がチラチラと視界の端に過ぎっていた。同棲してみても家政能力に何の不満もなかったし、金銭感覚も極めて真っ当だった。それまで付き合った子みたいに、会う時間が少ないことを責めもしなかった。結婚したい、家庭に入って専業主婦になりたいのだと言っていた子。
 んでも、まさか。
 この部屋に他の男を引っ張りこんでるとは思わなかった。あれは本当に、びっくりした。そりゃー、寂しくないはずだ。
 仕事が理由とはいえ放置気味になっていたのは事実だったから、俺はこの部屋から出てってもらう事だけで済ませた。親への挨拶がまだだった事が救いだ。最も怒りが欠片も湧いて来なかった時点で、所詮其の彼女に対する俺の感情は所詮その程度だったのかもしれなかったけれど。
 今更だし、どーでもいいけどね。
 苦笑した俺にどう思ったのか、神田は視線を伏せ気味にしてグラスの縁を舐めた。立ち入ったことを聞いた、そんな顔だ。

「この歳になれば、上手く行かなかった恋愛の一つや二つあるさー。俺がモテんのは事実だけど」

 多少茶化したつもりで口にした。てっきり馬鹿じゃないのか、とかそういう反応が帰ってくるとばかり思っていたら。

「あぁ…………だろうな」

 誂う色の無い瞳で普通に頷かれて、何とも背筋がむず痒い思いをする。

 じゃあ、俺と、どう?

 なんて、聞けたらいいんだけど。それにはまだ時期尚早だろう。
 勢いに任せて突っ走るだけの恋はもう卒業した。そういうのは若者に譲ろう。ゆっくり、外堀を埋めながら、持久戦に持ち込むような形でいい。
 アルコールが回り始めたのか、朱が差し始めた神田の頬を眺めながら、俺は少しだけ笑った。



 このラビュは二十代後半。