離れた此処からはぐるりと一周ヒビの入った卵が見えた。
ちらちらとそのヒビの間からは中の幼竜が見え隠れしている。体色は青、海竜だ。
水中で暮らす種がこんな水場からも遠い森の奥で孵るなんて間違いなく最悪だろう。
隣を伺うも、ユウは凍り付いたように動かない。驚愕の視線だけは孵ったばかりの幼竜へ向けられている。あぁ、そうだ。何百という歳で忘れがちだけど、ユウは竜族の中ではまだ若いんだった。
パリ、パリ、と殻の割れる小さな音が続く。もう孵るのは止められない。じゃあどうする?
自力で頭の殻を振り落とした幼竜はキィキィと高い声で鳴いて、母親の体に頭を擦り付ける。護るように幼竜を足で引き寄せて舐める青竜の方へ、俺は近寄った。
「!」
『!』
俺が近づいてくることに気付いた青竜は、カッと目を見開いて威嚇の姿勢を取る。
「ラビ!」
「大丈夫。…………大丈夫、あんたの赤ちゃん傷つけるようなことはしないからさ」
喉奥で唸る青竜と視線を逸らさないようにしながら、間合いまで入る。多分慌てて追ってきたユウの存在がなければ今頃一撃喰らってる所だろう。
ユウが俺の前に回りこんで後ろに押しやる間に腰に巻きつけていたポーチから、瓶を一つ。中身はただの水だ。ただの飲料水。液体に気付いたのか眼の色を少し変えて俺を見る竜の視線を感じながら、中身の水をほんの少しだけ手に出して、小さな幼竜の体皮に触れた。なるべく流れて無駄にならないように塗り広げる。
俺の意図に気付いた青竜は威嚇を止めた。
「ユウ、本部で応援呼んで、水運んで来て欲しーさ。こんなちっさいの、まだ動かせないさ?」
「…………だが、」
お前の言うことは間違ってないが、とユウは呟いた。仕方がない。ユウは、自分が不在の間に青竜に俺が危害を加えられるのを心配している。
確かに青竜がその気になれば俺なんか一発だ。だけど、もうそんな心配はない。でなけければその懐の中で産まれたばかりの幼竜に触る事なんて絶対に許してくれないだろうから。
「俺ならだいじょーぶ。竜と心を通じさせられるから、俺達は契約者なんだから」
暫く迷う素振りを見せたユウを急かして、何とか本部に向かってもらう事に成功した。
その間も俺は水を幼竜の体に塗り続ける作業を止めない。
出来るだけ早く、この水が持つ内に戻ってきて欲しいけれど。
『…………何故だ』
「うん?」
『何故お前が我が子を救おうとする。人間であり、あの黒竜の契約者であるお前が…………』
「こういう時はオタガイサマ、助けあいの精神っていうんさ」
『…………』
竜には余り無い考え方だろう。俺達人間と違い竜は強い。一応は群れているとはいえ、本来は群れて暮らさずとも十分生きていける生き物だ。弱い者に手を貸すという考え方も存在しない――――――竜の中では「弱い」とはえ結局は地上最強の固有種だ、竜の言う弱い者とは色種における意志決定権を持たない者である事を意味している――――――、精々が母親の元を離れた子竜を群の子として育てる事位だろう。
病に掛かることも、怪我をすることも殆ど無い。そういう生き物だ。
それが悪いことなのでは無い。ただ、こういったいざという時に対応しきれていないのも、現状。
「んでも、どーしてこんな所で産んじゃったんさ? 水辺で産めばよかったのに…………」
『…………初仔故に、時期を見誤った。飛んでいる最中に落とすよりはと、此処で孵すことにした』
「初仔かぁ…………」
ってことはこの青竜、結構若いんだろうか。確かに鳴き声も、雌の方が元々高めとはいえユウとそんなに変わらない気がする。
キィキィと鳴き声を上げて水を催促する幼竜に、ごめんごめんと声をかけながら水を掛けた。
「もーちょっとでユウが水持ってくるから、それまでは我慢してくれな」
『キィー』
目を細めた青竜は、首を下げて子供に視線をあわせている。
「あんたは? 水大丈夫?」
『…………辛くないと言えば嘘だ。だが、我が子の事が先』
「さっすがお母さん」
幼竜から子竜に変わるなり母親が子供から離れることから、親としての愛着は薄いと思われがちな竜だけど、そんな事はない。
こうして赤ん坊の内は深い愛情を注ぐ。それは人間や、勿論他の生き物と何ら変わらない。
「――――――ラビ!」
入口の方から慌ただしい気配。
複数の気配に、安堵に唇の端を緩めた。
「青竜…………この間のシーズンでか。こんな所でよくガキを孵したな」
『…………』
「青の長に遣いを出した。どのみち直ぐにはこんなガキを連れて長い距離は戻れんだろう。世話が出来る青の奴が来る筈だ」
『…………感謝、します。赤の王』
現れたのはユウと、それから赤の王と、何人かの様々な色の竜達。
「お前は動けないか。おい、雌でガキの方を水場に連れて行ってやれ」
頷いた、今は人の形をとっている雌の竜達がまだ覚束ない足取りの幼竜を誘導し始めた。その様子を心配そうに母親である青竜が見守っている。
その竜の体に、雄の竜達が器の水を掛け始めた。
「動けないほどに弱っても尚、子供の為になら威嚇できるのか」
水を掛ける間、ユウが呟いた。純粋な驚きと、幾らかの敬意すら籠めて。
呟いたユウを、赤の王がちら、と見下ろす。
「そう悪いもんでもねぇっつー事が分かっただろう」
「…………」
その言葉に返事は無い。
それは子孫を遺すつもりが無いという公言するユウには、どう聞こえていたんだろうか。説教か、それとも皮肉か。何れにせよ他人の言葉でユウが今更それらを撤回する筈が無い。他人の言葉で翻意する程度の決意ならば今頃とっくに本能に従ってるだろうから。
まぁ、俺にとってはいっそそれすらも有難いのかもしれない。
まだ誰も知らない想いを胸に、俺はひっそりと笑った。
→15