部屋に、いや、建物中に充満する甘い匂いが、酷く不快だった。
それは消える事無く鼻腔の奥深くに残っている。
胸のむかつきに苛立つ。叫びだしたい、そんな事をしても何も事態は好転しないと知っているのにも関わらずだ。
浅く息を吸って目を閉じる。シーツを握り締めて奥歯を噛んだ。
後何回、後何年これを耐えればいいんだ? ――――――気が狂う!!
成る程仲間達が言う通りこれが途方も無い事なのだと今更理解する。
けれど、それでも尚「約束」を違えるのが辛かった。違えた所で誰も俺を非難する事など無いと分かっていて、それでも。
違えてしまったら俺の中からアルマの存在が消えてしまう気がした。
歯が砕ける程に強く噛み締めて――――――ふと鋭敏になっている感覚に、他者の存在を捕らえる。
ああ、そりゃいるだろう。まだ休暇に入ってない。支度だって途中の筈だ。
だが。
入ってくるな、頼むから。もう俺はおかしいんだ。
願いも虚しく、ドアが開かれ、遠慮がちな声が掛けられる。
「…………ユウ?」
ぞくり、と腰から背中にかけて甘い悪寒が走った。
「っ、」
一瞬息が止まる。
竜の発情が俺に影響する筈は無い。だって異種族だ。
けれど、確かに今――――――。
ベッドの上に伏せたユウの、裾から覗く白い脹脛に目が吸い寄せられる。おかしな話だ、これがまだ雌の竜の人型ならまだしも。
喉をごくりと鳴らした。理性が頭の片隅で鳴らす警鐘を無視して、惹き寄せられるようにベッドの傍へ。
「ユウ」
悩ましく顰められた眉間に触れた。
「…………止めろ」
ユウが威嚇する時みたいな唸り声を上げる。けれどその声には、哀願の響きも混ざっていた。
「…………始まっちゃった?」
実際目にするのは初めてだ。まだ子供の頃、スクールの最上級生の時にこの事――――――竜の生態と繁殖について――――――を教わってから、知識としては知っていたけれど。
元々人間よりも高い竜の体温に、更に発情の兆候の一つである発熱までしている為か、触れた指先が酷く熱い。
眉間から首筋に触れて、汗ばんでいるそこをつ、と撫で下ろした。止めろと言った筈のユウは、それ以上の抵抗はしてこない。
本気になれば、いやならなくなって、幾らでも俺を突き放す事位できるのに。
ユウが、少しでも建物に満ちる匂いから気を逸らす為にと開け放っていた窓から吹き込んできた風に、薄手のレースのカーテンが揺れた。
視界の端でふわりふわりと揺れるそれに、まるで正気を奪われていくような感覚だ。
多分それはユウも同じで、――――――だからそれ以上強く拒まなかったんだろう、と思う。
後悔するのは、どちら。後悔させるのは、――――――。
単に触れられただけで、意識が千々に乱れていた。
寄せては返す波のように襲い来る衝動に、抵抗する気など既に失せていた。
重ねられた手は人間の物だ、その気になれば払いのけることなど容易い筈だった。
だから、それ以上強く振り払わなかったということは同意と取られてもおかしくない。おかしくは、ない。だが。
「…………馬鹿野郎」
罵りの言葉は口に苦い。事実、俺はそれを誰に――――――自分自身にか、或いはラビにか――――――向けるべきかすら分かりかねていた。
ベッドの上には自分一人。乱れたままの心とは裏腹に満たされ満足した身体は落ち着いた。
欲に浮かされた単純な身体は触れられれば受け入れ、一度受け入れれば発情も収まった。つまり俺の身体はラビを繁殖相手として見なしたらしい。――――――馬鹿馬鹿しい。異種族の人間の、それも雄だ。繁殖のしようもないのに。
異様な熱量で襲い掛かる発情こそ収まったが普段よりも鋭敏になった感覚は未だに健在だ。ドアを二つ三つ隔てた先、バスルームにいるラビが降らせる水音も、溜息も、それから独り言も全て聴覚で拾ってしまっている。聞きたくないと耳を覆ってみても無駄だった。
竜が人間を繁殖相手に選ぶなんて話はついぞ聞いたことがない。実際これまでも無かっただろう、もしも発情期に人間もその対象になるなら、竜はもっと人間にとって危険な生き物と判断されている筈だ。竜が望めば人間は物理的に敵わないのだから。
「…………馬鹿は俺か」
諸々勘案して、結局自分自身の所為と結論を出した。溜息すら、最早出ない。
濡れた足音が近づいてくる。思わず目を閉じて、狸寝入りを決め込んだ。
「ユウ、」
自分の部屋でもある筈なのに、随分遠慮がちにドアを開いたラビが、小さく俺を呼ぶ。
答えは返さず目を閉じていると、俺が眠っていると判断したようで近寄ってきた。ベッドの横で佇み、俺を見下ろしているのが見なくとも分かる。
「…………。ごめんね」
でも、好きなんさ。
そんな甘い筈の言葉に、思わず奥歯を噛み締めた。
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