帰りの電車の中。
 大して動いた訳でもないのに倦怠感が酷くて、背凭れに凭れかかりながら夕日色に染まり始めた町並みをぼんやり眺める。
 ビルの合間から時折顔を覗かせる夕日の眩しさに、時折目を細めながら飛ぶように流れていく風景をただ眺めていた。
 既に、警察の所で見た親父の顔は思い出せなくなっている。忘却は人間の進化の末の賜物だ。俺にも一丁前に防衛機能は働いていたらしい。

 …………、ああ、そうだ、くそ。
 仕事間に合わねーじゃねぇか。

 ポケットから最近変えたばかりの携帯を取り出す。メールの画面を開いて、店の後輩にバイトに遅れることを店長に伝えるよう頼む。
 送信中の画面を暫く見てから、いっその事遅れるではなく休ませてくれにすればよかった、と今更な事を思う。
 バイトの身とはいえ慶弔休暇くらい貰ってもバチは当らないだろう。
 だけど今更、だ。

 深く溜息を吐いて、電車のボックス席の背凭れに深く体を預けた。








 暗い中に妖しく様々な色が揺れる。
 甘ったるい香水の匂いは、嗅いでると腐り落ちる寸前の果物の匂いのような気がしてくるから不思議だ。
 酒交じりの吐息に耳朶を擽られるのはそんなに嫌いじゃない。むしろ嫌いだったらこんな仕事、やってられないだろう。

 目の前で客が煙草を口許に持っていった。
 直ぐにジッポーで火をつける。

「ありがと」

 艶やかな笑みを浮べる彼女が「同業者」である事は間違いなさそうだ。
 何時もは客に媚をふんだんに含んだ笑みを浮べて、その懐を狙っているだろう。
 別にそれがどうとは、思わない。どうせ同じ穴のムジナだ。客から貰った腕時計の盤をチラ、と見る。

『ドンペリ一本、入りましたー』

 コールが掛かると目の前の彼女は少しつまらなさそうな顔をした。
 他所の客がチヤホヤされてるのを見るのは確かに面白くないだろう。感情的に。

「行かなくていいの?」
「君が目の前にいるのにどうして?」

 間髪入れずに返事を返すとこの返事は彼女のお気に召したらしい。小さく唇の端を吊り上げて、

「私にもシャンパン頂戴」
「畏まりました」

 彼女のその気遣いに敬意を表して、出来る限りの笑顔で応えた。







 最後の客が退店し、店を閉めた。
 更衣室で酒と煙草の匂いが染み付いたスーツを脱いでいると、後から入って来たフロアスタッフが声をかけてきた。名前は知らない。いやネーム付けてるけど。

「ティキは枕やんねぇの?」

 今日の売上はまあ、それなりに。最後についたあの彼女のシャンパンがデカかった。ドンペリじゃないけれど。

「やらない。面倒そうだし」

 枕はセックスのこと。それを手段に営業掛けて、客を繋ぎ止めることだ。
 良く言われるけど枕は元より俺は営業はしない。面倒だし、そもそも本職ホストじゃないし。その手のことをやればリターンはあるけれど同時にリスクも十二分に孕む事は重々承知している。

「ふーん…………お前顔がいいから、枕やったら売り上げ上位に食い込めそうなのになぁ」
「ははは、ただの大学生に何やらせようとしてるんだよ」

 つーか今のランクでも割と十分金貰ってるしな。
 別にこれ以上を望むこともない…………。

 何時もの服に着替えて、鍵を探そうとポケットに手を突っ込むと、かさり、とした感触。
 何だ、と引き出してみればそれは日に焼けて変色したような、変な紙。
 ――――――あぁ、そうだ。昼間あの子供に渡された奴だ。
 こんな小汚い紙なんかもってたって…………。

 握りつぶして屑入れに入れようとした。
 だけど、ふと、これを渡してきたときの子供の表情が脳裏に蘇る。

 …………中身位、見とくか。白紙かも知れねぇけど。

 握りつぶした紙を開く。
 そこにあったのは、

「…………草?」

 乾燥していた、そして俺が握りつぶした所為で粉々になった草。
 
「…………何だこりゃ」

 ゴミ?

「? ティキ何持ってんだ?」
「ゴミ? …………だと思う」

 何でこんなの…………。

「きったねー紙だな、ん…………? あぁこれ、あれだろ。押し花」

 勝手に手元を覗き込んできたフロアスタッフが呆れたような声で言う。

「押し花ぁ?」
「ガキの頃作らされなかったか?」
「押し花なら花だろ、これどうみてもただの草なんだけど」
「四つ葉のクローバーだったんじゃね? 破れてっけど、それっぽいぜ」
「…………あぁー」

 成程、確かにそれっぽく見えてきた。
 何でこんなものを。

「そいやガキん頃に探したな、四つ葉のクローバー」

 …………あぁ、そうだ。それは幸運の象徴だったっけか。
 これもそうだったのかもしれない。分かんねぇけど。
 幸運の象徴なら自分で持ってれば良かったんだ。――――――あんな幸薄そうな顔してたくせに。

 開いた紙を再び丸めて、それからポケットに戻した。





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