その日、唐人商人街の二大家は、夜も満足に明けない内から騒がしかった。
――――――ブックマン家。
「ああもう、若旦那様ったら! ご衣裳のまま、何処へ行かれたんですか!!」
そこかしこから侍女の悲鳴や、慌しく走り回る足音やらが聞こえる。
警備役は警備に抜かりが無いかの確認に余念が無い。
まだ夜も明けない時刻にも関わらず、至る所に篝火が焚かれ、日中とまではいかなくとも夕暮れ時のような明るさだ。
「あっ、ねぇダグ、若旦那様をお見かけしなかった!?」
「あー…………若旦那様ならもう気が気じゃないって感じでうろうろしてるからなぁ…………」
「ねぇねぇ、ダグは若旦那の奥様になる方の事知ってる? マリアン家のお嬢様なんでしょう?」
ついつい無駄話に行ってしまう若い侍女を、年かさの侍女が窘める。
「ほら、そんな話をしている暇があるの? 時間は待ってくれませんよ! 若旦那様の奥方様をお迎えするのに手抜かりがあるようでは、あちら様から呆れられてしまいます! それから若旦那様は今仮眠を取られています。…………手の空いた子は一度仮眠を!」
集っていた侍女達を散らし、彼女は腕まくりをして「ああ忙しい」と呟きながら歩いていく。…………こういった事は、女性に任せておくのが一番だ。
ダグは一つ伸びて、「俺も寝とくかな…………」と呟いた。
――――――マリアン家。
「皆、ご苦労様です。交代に休憩してくださいね」
アレンが忙しく動き回る侍女達にそう言って優しく微笑んだ。
――――――背が伸びた。彼が姉と慕う人よりも、尚。
二年前まだ少年という形容が似合う幼さを残していた顔であったのに、最早何処から見ても立派な青年のものだ。
「義姉さんの様子は? お疲れのようなら一度お休み頂いた方が」
「俺なら大丈夫だ」
部屋の外での会話も、中の彼女の耳には届いていたらしい。
「義姉さん、入ってもいいですか?」
「構わない」
「失礼します…………うわぁ…………!」
思わずアレンが感嘆の声を上げる。
彼の姉は、縮緬に吉祥地模様の白無垢姿。その横には綿帽子が置かれている。
婚礼衣装は絶対西洋のものが似合う、と主張し、その後にはせめて華やかな色打ち掛けを、と主張してきたアレンだが、今のこの義姉の姿を見れば成程義父の目は確かだったかと納得せざるを得ない。
清楚で慎ましやかなその衣装が、彼女の容姿を尚更引き立てる。
これから髪を結い上げるのだろう、侍女の一人がその黒髪に丁寧に櫛を通していた。
義姉は、今日嫁ぐ。
嫁ぎ先は同じく唐人の商家、ブックマン家の総領息子ラビ。
…………姉弟としてあれたのは、一年と半分程度と、短い時間。
本音を言えば、姉が嫁ぐのは今でも面白くない話。
けれど、新たに義兄となる彼だけが望んでいたのではなく、義姉自身もが望んだ事を、どうして邪魔立て出来ようか。
アレンは義父にどつかれていた彼の姿を思い出すことで何とか溜飲を下げる。
「…………時間までに、少しは休んでくださいね」
「ああ」
ふわり、と彼女が微笑むのを見て、ああやっぱりラビはもう一度くらい殴っとくべきだったな、とアレンは笑顔の裏でそんな事を考えた。
輿入れ行列は、名家の娘として華々しく大規模な物が組まれる。
嫁に行く当の本人は地味なものを望んだらしいが(そもそも嫁ぐといっても所詮同じ町内のこと、さして距離があるわけでもない)、それは送り出す側のマリアン家としても、迎える側のブックマン家としても了承しかねる話。
この婚姻が相思相愛の男女の幸せな結末というだけではなく、唐人商家を代表する二家がこれから親族として手を携えていくという重要な儀式なのだから周囲
に其れと知らしめる必要がある―――――――そう言われ義姉は不承不承納得したようだが、実際にはそんな思惑はどうでもよくただ娘の、或いは孫の挙式を華
やかなものにしたいという大人達のある種分かりやすいものである事はアレンには分かりきっていた。
「お嬢様、お足元お気をつけ下さいませ」
巳の刻。蒼穹の美しい時間。
盛装した使用人全員が見守る中、門扉前に組まれた行列の、真ん中に配置された屋根付きの輿に義姉が一人の侍女に手を引かれて歩み寄った。
目深に綿帽子を被っている所為でその表情は伺えない。
―――――――と、乗り込む直前にふと彼女は歩みを止め振り向いた。
「―――――――お世話に、なりました」
そう言って一礼した彼女は、次は振り向かずに輿に乗り込んだ。
行列がゆっくりと動き出し、僕は不覚にも涙ぐんでしまう。
「…………見事に振られたな、アレン」
「…………うるさいですよ。大体義姉さんは義姉さんです。…………他の何でもないんですよ」
「そうか」
「さあ、旦那様に坊ちゃまもお着替えなさって下さい!」
侍女の声に緩い仕草で振り向いた。
式にも披露の宴にも、勿論親族として参加する。
…………用意が入るのはこちらも同じ。
侍女に促され屋敷に入る直前、仰いだ空は何処までも澄んだ蒼だった。
唐人商家を代表する大家の嫁入り行列は大層な長さと華やかさ。
家々から物見高い人々が、マリアン家の深窓の令嬢から今ブックマン家総領の正妻にならんとする娘の姿を一目見ようと、門扉を開いて注目の顔。
好奇の視線に注視される事には慣れている彼女は、それでもけして俯かない。
やがて一際大きい門の前。
全開にされた門扉は色鮮やかな飾り立てをしてある。
行列の歩みが止まり、担がれていた輿が降ろされた。
…………薄く透ける御簾を、一人がそっと手で避ける。
「…………ユウ」
差し伸べられた手を掴むと、軽々と相手に抱きかかえられる。
そうして露になる相手の姿に、彼女は幸せそうに微笑んだ。
「何処へ、行こうか?」
「…………先ずは婚儀だ、集まった客人を放ってはおけないだろう?」
くす、と小さく笑い合って囁き交わす。
「ああ、だけどそれが終わったら」
「お前と一緒なら、何処へでも―――――――」
籠に籠められ飛ぶ術を失った胡蝶は、
今解き放たれ、蒼穹へと舞い上がる。
そして今、愛しい太陽の下へ――――――
<続>
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