「全くもう若旦那、昨日の今日で…………」
ぶつぶつと文句を連ねるダグを笑顔で黙殺しながら、ラビは花街に来ていた。
昨日と変わらず人混みの中、高級妓楼の立ち並ぶ界隈でラビは知らせ待ちだ。
つい先程ダグを桜雪楼にやったばかりだ。
乱暴な方法だが遣り手に金を掴ませ、初会ではなく裏から始められる様根回しした。
太夫を座敷に出すまでに時間が掛かる、との事でその支度待ちの中だが、先程からダグの恨み言が延々と続いている。
やや潔癖なこの青年はどうもこういった場所が気に入らないらしい。
「…………、」
だがそんな事はおかまいなしに、ラビは上の空だった。
そんな様子にダグは溜息を一つ、落とした。
部屋に満ちるのは画材の匂い。
余り好きなものではないが、あとで香を焚かせればいいだけの話。
ゆるりと脇息に身を預けながら目の前で筆を走らせる男を見やる。
水揚げして日が経たないうちから通うになった客だ。
何が楽しいのか、初会でも裏でも芸者を遊ばせるだけで本人は絵筆を握ったままで、馴染みになってからも凡そ遊女と客らしい真似に及んだ事が無い。
「もう少し、身体を預けて、ああそうそう」
当代一の画家だか何だか知らないが、酔狂だと、心底そう思う。
けれどけして、嫌いではない。
それこそまだ子供であった頃からの顔見知り、身体を求められないからこその安心感がある。
とても、優しい客だ。
前の客に手荒に扱われ泣いていれば慰められた。芸に秀でているわけでも、話術に長ける訳でもない。そんな己に考えも付かないほど莫大な金額を掛けて衣装やら飾り物やらを買い与えて来た。
真意は不明なれど、この客からの呼び出しを厭った事は一度たりとも、なかった。
ふわりと眠気に包まれうつらうつらする。
紙に筆が滑る音。とても安心出切る、安らげる時間。自然緩む表情をこの客が愛している事を、彼女は知らない。
しかし、そんな中。襖を打つ音に、ふ、と彼女の表情が消えた。
「失礼致します」
襖を小さく開けて禿の少女が顔を出す。
嫌な予感に自然眼差しが厳しくなるのに、少女が怯えたような顔をした。
「おや…………珍しい事もあったものだね」
仮にも太夫という地位を与えられている自分を買うには莫大な金が掛かる。
故にそうそう指名が重なるという事はないはずだ。
指名が重なれば、先客は後客に遊女を譲るのが粋とされる。
ちら、と視線を遣れば早くも画材を片付け始めていた。
「ティエドール様、申し訳ございません」
後から現れた振袖新造が小さく侘びを入れながらそれを手伝う。
「姉様、御召しかえを」
舌打ちしたいのを堪えながら身を起こす。
これがまだ相手をするのに疲れるような、嫌な客であったなら良かったのに。
去り際、客の傍を通りがけに一言小さく囁いた。
「…………またお越しくださいませ」
「ああ、そうさせてもらうよ」
後の相手は新造に任せ、支度用の部屋に禿と共に入る。
数人の禿と新造に衣装を任せ、最初にやってきた少女に聞いた。
「…………で、誰だ?」
「いえ、何でも裏のお客様だそうですが…………」
「…………裏?」
二度目の事だが、はて記憶にある限りそういった客は今はいない筈だ。
そんな相手がいただろうかと首を傾げながら向かった先で、彼女は人生最大の――――――再会と後悔をする事になる。
蓮宮太夫には先客がいたというが、幸いにも花街の仕来りによって譲ってくれたものらしい。
通された部屋で一人酒を舐めながらラビは待つ。
こういった部屋に通されたのは初めてではない。親しく通うことは無くても太夫を買った事はあるのだ。
けして気後れしているわけでもないが、今ラビは只、待つ事しか出来なかった。
やがて聞こえ始める鈴の音と、
少女の「蓮宮太夫にございます」という声。
やがてかち合った漆黒の瞳が驚愕の色に染まるのを見て、ラビは――――――自分の疑念が正確であった事を、知った。
案内の少女が襖を閉め立ち去った後も、彼女は襖の近くで立ち尽くしたまま、驚愕の表情で凍り付いていた。
「…………とりあえず、座れば?」
喉が、渇く。
俺は、彼女を知っている。
確信を得て、それからなるべく平静に聞こえるように彼女の名を呼んだ。
それは娼妓としての彼女の名ではなく、――――――彼女の真名。
「…………久しぶりさね、ユウ」
<続>
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